全ての漫画の基本は4コマである、という説ははっきり言って古くさい。
もっと違った場所から新しい漫画を生み出している人はたくさんいる。
でも、一面の真理はあって、個人的には4コマを描きこなせれば、
何百ページだっていくらでもコマを割れるようになると思う。
4コマ漫画は情報を選択し洗練し、最も的確な形でものごとを表現しようと
するメディアだ。基本的にはストーリー漫画のように「主役」というものは
いない。いや、大抵いるのだけれど、存在のウェイトのことだ。
貧乏学生のバイトくんもエリツィン大統領も、間抜けな探偵のホームズも
地底人も、犬のポチもアル中の藤原先生も、どんな人種も生き物も男も女も
老いも若きも全てがコマの中で水平に横並びし、等価でしかない。
これが4コマ漫画が、何よりも天才いしいひさいちが体現するラジカルさだ。
ここで言及したいのは昨年公開されたジブリのアニメ映画「となりの山田くん」についてだ。
「もののけ姫」に対しても手放しの絶賛でもなく、全否定でも決してない複雑な気持ちが
残ったけれど、それはこの作品に対してもだった。
フルデジタルで描かれた水彩タッチのこの作品には、実験的にリアルな頭身で
描かれたシーンが挿入されていた。
それに関して自分で感じたことに言及した文章に出会えなかったため、
ここでちょっぴり記してみたい。
深夜に山田くんの家のまわりでいかにも80年代的に暴走族が騒いでいる。
おばあさんとまつ子にうながされて、たかしが外に出る。
出た途端背景は美しい光と闇を伴って現出し、たかしもリアルなタッチに変わる。
たかしはおどおどと注意をしようとするが、若者達は聞く耳をもたない。
たかしを威嚇し、緊迫した空気が流れる。
いしいの4コマだったら、バイトくんがヤクザにとっつかまって、「ワー」などと
ボコボコ殴られ、久保達が逃げまどうオチを連想するところだ。
ここにおばあさんがやってきて、状況は一変する。
「あんたらどうせ騒ぐんやったら、空き缶拾いとか人の為になることせなあかんよ」
そうまぜっかえした途端に、暴走族たちはいつものさえない2頭身の若者達へと変貌し、
白けて立ち去ってしまう。
この後たかしはとぼとぼ帰途につき、妄想の中で月光仮面になって家族を
救うのだ。おばあさんの論理やヒーロー願望は明らかにいしいとは異質で、
そこにファンは反発を感じたのだろうが、忘れてはいけないことがある。
あのリアルなシーンこそが現実なのだ。
バイトくんがヤクザにボコボコ殴られているとき、彼らは4コマの中で
同レベルに存在し、それに安心して私たちは笑っていられる。
しかし、それは4コマ漫画の枠組みが、いしいの天才がもたらすものなのだ。
私はそこを「となりの山田くん」が看破していた一点において買う。
そしてそれは私たちも心のどこかで望んでいる世界ではないのか。
「平凡」であること、普通の暮らしとあの映画が謳ったものは実はその困難さを
浮き彫りにしているように私には思われた。
でも私はあの映画を喜んだ。映画館で一緒に見ていた小さな子供達は、
まつ子がほうきでたたかれる動作のギャグでしか笑えなかったようだった。
しかし、いつものようにいしいの4コマを楽しむのとは違った場所で、
フィナーレでまるでディズニーアニメのように山田くんたちが空を舞い、
地上では安田がタブチと肩を組み、広岡がお手伝いにあたり散らし、
藤原先生が「適当!」と言い放つ、愛すべきいしい世界がスクリーンに
素晴らしい技術力をもって描き出され、世界に公開された事実に私は涙した。